<第一話>
昨年の秋ごろから何か楽器を習ってみたいと思っていた私は、満足に楽譜も読めないことに気づき「はた!」と困ってしまったのです。なにしろ、音痴が売り物だった
のですから、3年前まで満足に歌うこともできなかったのですし、必要に迫られて何回か教室に通いどうやら「カラオケ」が唄えるようになったばかりですから。
七十歳も半ばに近い私が選んだのは、三味線・・・。それも地唄・・・。なんと無謀なことでしょう。
東京下町で生まれ育った身としては、三味線・邦楽が懐かしかったのです。「和の世界」に憧れがあったからこそ、いきなり三味線を習おうなんて発想が生まれたのです。
そればかりではありません。今の世の中があまりにも騒々しく、人々は思いやりを忘れて自分本位・・・。昔の下町の暮らしの中にあった温かい人情と、他人を思いやる優しい人たちに見守られて少年時代を過した者にとってはあまりにも悲しく、「和の世界」のなかに何かを見つけ出したいとの思いがあったのです。
もちろん、三味線など触ったこともありませんから、まったくの素人に、それも高齢の私に手をとり教えてくださるお師匠さんを探さねばなりません。 小唄でもなく長唄でもなく「地唄」となるとインターネットで探してもなかなかおられません。そして、ようやく美緒野会にゆきつけました。早速、小野先生にお電話で、「高齢であること。まったく触ったこともないこと。病気の後遺症で手が人並み外れて大きいこと」等々お話して「私でも大丈夫でしょうか?」とご相談いたしたところ、快く受けていただきました。
<第二話>
さあ、愈々「和の世界」に入れます。
「和の世界」には、和のしきたり、マナーがあります。訪問の作法、和室での作法等々。「和の世界」のたくさんのしきたりは、今のアメリカナイズされた生活の中で使われなくなったものが多くあります。しかし、日本の音楽をお稽古する以上古くからの和の作法をしっかりと身につけてゆかねばなりません。
まずはお稽古の場に入ることから始めましょう。玄関でチャイムを短く確実に鳴らします。これは2秒くらいが良いでしょう。7秒待ってお返事がなかったらもう1度鳴らしてみましょう。お約束してあれば、そのまま少し待ちましょう。また7秒ほどお待ちしてさらにチャイムを鳴らして待ちます。それでもお返事がなければ、何か急用がおありになってお出かけになったのかもしれません。残念ですがメモでも残してその場は引き上げることにしましょう。
玄関が開く気配がしましたら、冬であればコートを脱いで表を内側にしてたたみ、片腕に掛けるなどして待ちます。
玄関でのご挨拶は、まず自分の名前を告げ、訪問の目的を簡単に申し上げ・・・この場合は本日よろしくお願いいたします。程度・・・(二度目からは、名前は省略してよいでしょう)。玄関に通され靴を脱ぎますが、もちろん主あるじにお尻を向けてはいけません。向き合ったまま履物を脱ぎ、斜め横向きになって履物の向きを変えます。(上り框が高い場合やブーツを脱ぐときは「失礼いたします」と申し上げ、後ろ向きに脱いでも良いとされています)
<第三話>
さて、これからいよいよお部屋に通されるのですが、そのまえに何故、何事にもお作法(マナー)があり、そして守らなければいけないのかを考えてみましょう。
私たちの社会は大勢の人たち、いろいろの経歴・考え方をもつ方たちで構成されていることは言うまでもないことです。その中にあって、お互いに気持ちよく生きてゆくためには相手を傷つけない、相手の方に良い印象を持っていただく、ということが大事です。
要するに、自分を美しく見せるため、相手の方に嫌な感情を持たれないため、といったほうがわかり易いかもしれません。 勿論、お作法は動作だけではありません。心も大事な要素ですし、そこから出る言葉も含まれます。
日頃から、淑女であり、紳士であるよう心がけてゐたいものです。
お稽古を受けるお部屋に通されます。控えの間に入ったら、下座に座って先生を待ちます。控えの間では廊下側が下座になります。あまり端によらず、先生がお通りになられるだけあけて、持ち物も自分の下座に置きます。もちろん、和室では畳の縁を踏んでもその上に座ってもいけません。畳の縁は装飾であると心得ましょう。 ここで、本日のお稽古をよろしくお願いいたしますとご挨拶します。
「どうぞこちらへ・・・」と、お稽古のお部屋に招かれます。私は、「失礼いたします」と立ち上がりお部屋へ移りますが、ここでも敷居を踏んだり、壁に手をついたりしてはいけません。和室の壁は汚れやすく、痛みやすいものですから。
お部屋には前もってお座布団が置かれています。このことは、ここがあなたのお席ですという意味ですから、自分で勝手にお座布団を動かしたり裏返したりすることは失礼なことです。さて、ここですぐにお座布団の上に座っては駄目。まずはお座布団の置かれている下座の畳上に正座して(このお部屋では先生の座られる位置が上座に当たりますから、自分の座布団の左側が下座になります)「本日のお稽古をよろしくお願いいたします」と正式にご挨拶しましょう。
「どうぞ、お座布団を・・」と声を掛けていただいたら軽く会釈をして、つま先を立てて片ひざから斜めに座布団の上に上ります。(お座布団から降りる場合もこの逆にして、下座へ)
私、家では洋式の暮らしが殆んど。正座の機会が少なく、お稽古の時間ずっと…なんてもちそうもありません。少しこまりましたが、そこはかっこつけたがり屋の根性で、心配してくださる先生の「大丈夫ですか?」のお声につい「一時間ぐらいなら…」とお答えしてしまい、しまったと思ったときはすでに遅し。 お稽古が終わったときには脚じんじん。ヨタヨタ立ち上がった私に、心優しい先生「次回からは正座椅子をお使いください。」恥ずかしいやらほっとするやら…。恥をかかないために何事もちゃんとお話しておいたほうがいいですね。
<第四話>
さて、私の家は町田のはずれ。お稽古には約二時間ほど乗り物に揺られて通います。その間の楽しいこと。隣に座ったお母さんに抱かれている赤ちゃんとのおしゃべり?生後五ヶ月の坊やが私に「ブア オウ ブウ……」といろいろお話をしてくれたり、一才の女の子がベビーカーから私に手を伸ばし、抱っこしてといったり。
先日は、揺れる電車で器用に折り紙をなさっておられる老婦人につい「素敵ですね」と声をお掛けしたら、ご自分は腹話術で施設を訪問していること、八十二歳のご主人は本の点訳ボランティアに通っていることなどを話され、大井町で電車を降りられるときにかわいいねずみを折ってくださって「どうぞ」と、お土産に頂いてしまいました。
ときには、小学生くらいの子が「おじいさん座って」と席を譲ってくれ「有難う」と座らせてもらい、隣に赤ちゃんを抱いて座っておられたお母さんとその子にお話しながら、この子の家庭はきっと幸せなんだろうと思いを馳せ、それは楽しいひと時です。
こんなこともありました。 割と込んでいた車内で、若い女性が男性に声を掛けられ迷惑そうにしていたので、私が心配していたときです。突然その女性が「お父さん…」といいながら私に寄ってきました。とっさのことで驚きましたが、すぐに事情を察した私は「どうした。「いま帰りか」と芝居を打ったのです。 もちろん、男はどこかへいってしまいました。 そのお嬢さんが「有難うございました。助かりました」とお礼を言ってくださると、期せずして周りの乗客の方から拍手が起こりました。機転の利くお嬢さんと役に立った爺の一齣です。
先日の朝、横浜線の車中でのことです。隣に座った娘さんがお化粧を始めました。きっと、おうちでは忙しくてできなかったのでしょう。まだ二十代はじめくらいの可愛い女性です。 私は、静かに話しかけました 「ほかの乗客の方々は退屈だからあなたがお化粧でだんだん変わってゆくのを興味深々見ているかもしれませんよ。お化粧はおうちかトイレでなさい。公衆の面前でなさるものではありません。」すると、その娘さん、素直に「有難うございます。恥ずかしいことをしていました」と、きっと根はいいお嬢さんなのですね。本当に知らなかっただけなのですね。 安心しました。 これは、お節介爺のお話。
<第五話>
そろそろお稽古のお話に戻りましょう。何しろお三味線など触ったこともありません。扱い方から、いろいろの名称にいたるまでご指導を仰がなくてはなりませんから、私よりも先生のほうが大変…。私は高齢ですので忘れっぽくなっています、一言でも先生のお話を聞き漏らしてはいけません。 後で結構忘れてしまったことがあり、再度教えを受けましたがここで一言。
対面する方のお話をお聴きするときのこちらからお話しする場合にも和のお作法があることを覚えていただきましょう。 お作法は面倒だなどと思わずに、いま少しお付き合いをお願いします。 知っているのと知らないのでは「知っているのと知らないの」くらい品格に差が出てしまいますから。
向かい合って座っているとき、視線は相手の方の額、お臍、肩から三センチ外側の位置を結んだ四角形の内側に置くのが良いでしょう。 お話を聴いたり、こちらからお話をするときは、相手の方の目、乳、肩の線を結んだ四角形の内に視線を置いて正しい姿勢でなさってください。もちろん、大事なお話の場合は相手の方の目に視線を置いてしっかりお聴きし、お話しすることは申し上げるまでもないことです。正座のとき手は、膝の上に軽く曲げた左手の甲に右掌を重ねて置くようにすると良いでしょう。 このときどちらの親指の先も掌の中に包み込んでおくと姿が良いと思います。
ご挨拶の際お辞儀をします。頭ばかりを下げるのではなく姿かたち良いお辞儀「座礼」についてちょっとお話しましょうか。座礼の基本は屈体です。これは、正座の姿勢から上体を前傾させてゆくことで、特に気をつけなければならないのは背筋をまっすぐ伸ばした状態を維持することです。頭だけ前に下げると衿と襟足の間に隙間ができますし、顎を上げすぎると胸元に隙間ができお着物の形が崩れます。いずれにしてもカッコワルイことです。
(つづく)
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八木一明(やぎ・かずあき) 昭和8年10月8日東京生まれ。立教大経済学部中退。脳腫瘍で倒れるまでは、東京で損保調査会社などを経営していた。平成2年に障害者乗馬連盟(RDA)が国際化されたのを機に,、国内11の支部を持つ日本障害者乗馬連盟(JRD)を設立。クラブ開設は、室根高原牧場組合の誘致に応じて実現した。乗馬リハビリは、半身不随、小児麻痺などのほか、自閉症やぼけ防止にも効果があるという。「文化と平和のいずみの会」会長。「あいはら・小山九条の会」会長。妻美智子さんと二人暮らし。
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ある日のことでございます。英国仕込のダンディさと,江戸っ子気質を窺わせ、ユーモアセンスあふれる70代の素敵な方が「お三味線を弾きたい」と、高輪教室を訪れて下さいました。洒脱なオハナシが面白くて、ふたつ返事でご入門頂きまして、それ以来、ご熱心にお稽古に取り組んで頂いております。さすがにご見識が高くていらっしゃいますから、お作法の心をテーマに、HPに連載をしていただけませんかなどと厚かましいことをお願いいたしましたら、心良くお引き受け下さいました。為になるけれども、ちょっと耳の痛いような・・・でもやっぱり楽しい和のお話が始まります。皆様もどうぞお楽しみ下さい・・・。(著者様のご紹介はこちらです)




